柔らかな毛の塊は、華奢な手に抱かれ小さく鳴いた。
ぷらぷらと浮いた後足が足場を求めて空を蹴る。
肉球についた砂粒が、着物の膝にぱらりと落ちた。

「どこが不吉だと言うのでしょうね」

甘えるように鳴く毛の塊を胸の辺りで抱きながら、日本は黒目がちな双眸を伏せる。
笑っているのか泣いているのか、いまこの場所からは判別がつかなかった。

「こんな小さく非力な生き物に何が出来ると言うのでしょう」
「言い伝え、か?」
「ええ」

黒猫が前を横切ったら不幸になる、なんて。
根も葉もない、ただの噂に過ぎないんですけれどね。
現にほら、この子が居ても何も起こらない。
むしろ私は幸せな気分になりますのに。

寂しそうに微笑んで、黒い猫の首元を掻く。
気持ち良さそうに目を細め、猫はころころと喉を鳴らした。





「俺の家では、」
「え?」
「……俺の家では、悪い言い伝えばかりじゃ、ないぞ」

黒猫が家に住み着いたら幸運がやってくる。
結婚祝いに黒猫を贈ると新婦に幸せが訪れる。
自宅に入ってきたら縁起が良い。

挙げ連ねたらキリがないほどに、その手の話は多いものだ。
もっとも、どれも根拠などない迷信めいたものばかり。
だからあまり気に病むなと、そう続けるつもりだった。

「そう、ですよね」

日本の笑みを見るまでは。
柔らかな、穏やかな、ふわりと花が綻ぶような。
思わず見入ってしまうくらいに、きれいなきれいな表情で。





「それに、この子は鉤尻尾ですから」
「……カギ……?」
「ええ」

聞き慣れない言葉に首を傾げると、ほら、と猫の尾を示される。
長い長いその先が、ほんの僅かに折れ曲がっていた。
こういう尻尾を鉤尻尾と言うのですよ、と、微笑みながら日本は言う。

「この鉤の部分に幸せを引っ掛けて、連れて来てくれるんです」

これもまた、言い伝えではありますけれど。

尻尾の先から手を離し、ねえ、と猫に同意を求める。
まさか言葉を理解しているわけでもあるまいに、黒い毛玉は首を擡げ、にゃあ、と小さく鳴いてみせた。





「この子、イギリスさんに似てますね」
「なっ!?」
「ほら。目の色が」

くるりと猫の身体を反転させ、差し出すように掲げてみせる。
艶やかな黒い毛並みの中で、きらきらと輝く緑色の、目。
カチリと視線が交わった途端、ふいと顔を背けられた。
ついでのように胸元を蹴られる。一度ならず、二度三度と。

「恥ずかしがりやさんですね」
「……」

けれど蹴っては駄目ですよ、と日本は猫を嗜める。
その表情が、その仕草が、あまりに可愛らしいから。
ぺったり捺された足跡印には、目を瞑ってやることにした。





温かな膝に身を置きながら、福招く猫が嘯いた。
「おまえなんかお呼びでないのさ!」





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