桜の頃も美しいですが、緑溢れる季節も良いものですよ。
珍しく誇らしげな調子で日本は言った。
それが決して自慢げに聞こえないところが、彼の控え目な性格の顕れなのだろう。

是非その頃にと招かれるまま、訪れたのは六月の末。
蒸し暑さが色濃く残る中に、カランコロン、と履物が鳴る。

「夕涼み、と言うんですよ」

夕闇に染まる町を歩き、柔らかく笑みながら日本が言った。
強過ぎず弱過ぎず、吹き抜ける風はひんやりと涼しい。
陽が落ちれば過ごしやすくなりますよ、と日本が言った通りだ。

川の畔を歩いているせいもあるのだろう。
さらさらというせせらぎが、聴覚からも涼を呼んだ。





ふと、川沿いに植えられた木に目が留まる。
風を受けてふわりふわりと、枝垂れた枝の影が揺れた。
その根元に、佇む人影。白い着物を纏った、女、だろうか。

「知り合いか?」
「え?」

隣を歩く日本に問う。
不思議そうに首を傾げて、どうかしましたか、と返された。
足を止めた俺に倣って、カランと下駄の音も止まる。

「ずっと、こっちを見ているんだが」

あそこ、と柳の木を指差して、知り合いか、と再度問う。
日本は眉をきゅっと寄せ、その目を眇めて小さく唸った。

「……あそこに、誰かいるんですね?」
「あ、ああ。白い着物の、女だ。たぶん」

髪が長いから、と告げる。

日本は視線を外さぬままで、次々と問いを投げてきた。
着物の衿の向きだとか、顔色だとか、雰囲気だとか。
答える毎に日本は青褪め、細い手指を握り締める。

具合が悪いのではなかろうか。
そんな不安が脳裏を掠め、声を掛けようとした矢先。
日本はくるりと踵を返し「行きましょう」と硬い声で。





「日本、いいのか? 知り合いなら、」
「いけません」
「……日本?」

いつになく強い口調で言い、日本が俺の腕を取った。
その手が小刻みに震えていて、痛みを覚えるほどの力が込められる。

「行きましょう」
「え、あ、おい日本?」
「あちらへ行ってはいけません。絶対に、です」

イギリスさんには見えるのでしょう?
もし仮に、別の場所で同じような人を見かけても、決して近付いてはいけません。
いいですか、絶対に、ですよ。

鬼気迫る表情、有無を言わさぬ口調。
腕をぐいぐいと引きながら、念を押すように強く言う。
青褪めた頬、ひやりと温度の低い指先。
具合でも悪いのではないか。
そう思っても声を掛けることは憚られた。





自宅の玄関を潜ったところで、やっと彼は息を吐く。
下駄を脱ぐことすら忘れ、後ろ手に閉めた引き戸に凭れた。

「どうしたんだ、一体」

うっすらと滲んだ汗を拭い、青褪めたままの相手に問う。
日本は震えの残る手で額に触れ、深く重い息を吐いた。
あの手は冷たいままなのだろうか。
掴まれていた腕に、その感触が蘇るようだった。

日本が黒い目を向ける。
心なしか色の失せた唇が、ふるりと震えて音を紡いだ。





「あれは死人です」





魅入られたが最後、二度と戻っては来られませんよ。

告げられた言葉を飲み込んで、理解するまでに時間が掛かった。
大丈夫ですかと問い掛ける声が思考回路を上滑る。
ぞっと背筋が粟立ったのは汗が冷えたためではなかった。





おいで、おいで





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