広い広い屋敷の中にぱたぱたと軽い足音が響いた。
何事だろうと視線を向ければ駆け寄ってくる子供の姿。

「中国さん、中国さん!」

急いたように名を呼ぶ声に、どうしたある、と問いを投げた。
息を切らして立ち止まった子のふっくらとした頬が赤い。
きらきらと輝く真っ黒な目がやや上向きに我を映した。





「お月様を捕まえました!」

見てください! と差し出したのは水を張った木の盥。
床に置いた衝撃で、ぱしゃんと水が僅かに跳ねた。
ゆらりゆららと揺れる水面、それ以外には何もなく。

あれ、と子供が声を上げ、盥を覗いて首を傾げた。
それから高い夜空を仰いで、しゅん、と項垂れ肩を落とす。

「さっきまでここにあったのに」

逃げられてしまいました、と泣き出しそうに震える声。
ぐず、と小さく鼻を鳴らして、濡れた目元を袖で拭った。





「……中国さんに、お見せしたかったのに……」

しゃくりあげる呼吸の合間に、紡ぎ出されたその言葉。
なんて優しく愛しい子だろう。
込み上げて来る思いのままに小さな身体を抱き締めた。

歯止めをなくしたかのように、零れ溢れる嗚咽と涙。
よしよしと軽く背を叩きつつ、ふと水面に目を遣った。
鏡のように静まり返った盥の水に月の影。





子供の頬をそっと突き、見えたある、と微笑んで。
水面の月を目にした子供の顔に、笑顔が咲くのを嬉しく思った。





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